| 歴史(寺社)
多度津町今昔物語
富井家住宅主屋・新座敷・土蔵・門が、国の登録文化財として登録。主屋は、文政11(1828) 年、その他は江戸末期に建築されました。冨井泰蔵は、裏判方本役、江戸勤番など多度津藩での要職に長年就いていました。
多度津藩「陣屋」
京極家が入部するに及んで、多度津は再び城下として息を吹き返しました。多度津藩の創設は元禄七(一六九四)年、京極高通公が一万石の初代藩主となり、以後高慶・高文・高賢・高琢・高典と明治維新までの百七十六年間に多くの文化的産物を残しています。
三代目藩主高文公までは丸亀城内の居館で執政し多度津藩「陣屋」ていましたが、四代目藩主高賢公の時に、文政九(一八二六)年、武家屋敷(陣屋・城の築造を許されない大名の屋敷で、天守閣や大規模な櫓・堀・城壁をもたないもの。)の構築工事にかかり、居館(御殿・新御殿)・調練場・武具庫・鼓楼・自明館(藩校)・剣術道場・藩米倉庫・作業場などを完備し、外郭、外門を三カ所設け、同十(一八二七)年に完成しました。
陣屋の敷地は、およそ六千六百坪で、御殿の正面には堀を渡って東側および中央の大手通りに面して武家屋敷を配していました。
また、五代目藩主高琢公は、天保五(一八三四)年から同九(一八三八)年まで五年の歳月を費やし、多度津湛浦(たんぽ:築港)の大工事を行い、瀬戸内海屈指の良港を築造しました。今日の多度津港の基盤を築いた名君と称されています。